「海鷹丸」船長から「宗谷」が通った後は魚の道ができると言われる。 なお、「宗谷」の姉妹船の最期は以下の通りである。 (この時乗っていた猫は三毛猫のオスであり、航海の安全を願って「宗谷」に乗せられた。南極へ向かう途中で「タケシ」と命名され第一次越冬隊に参加後、日本へ無事帰国した後に行方不明となっている)「宗谷」は出港してすぐの11月15・16日にフィリピン西方洋上で台風19、20号にダブルで遭遇、横揺れが38度・縦揺れが20度にも達し、「宗谷はえらく揺れる船」という評判に。この時、搭載していた水上機も破損してしまった。 なお、帝国海軍の歴史を通じて陸海軍に徴傭された商船は多く、その中には特設艦船として改造された船も少なくないが、正式に軍籍に編入された船は「宗谷」だけであった。 昭和戦後の子供たちからは大変人気のあった船であり、本船を主人公としたTVアニメ『宗谷物語』が国際映画社の手によって制作され、1984年2月から6月にかけてテレビ東京系列局および福岡放送(当時は日本テレビ系列)他にて放送された。「船」そのものが主人公になったアニメ作品というのは前代未聞であり、現在に至っても他に例がない(アニメ『氷川丸ものがたり』の主人公は氷川丸ではなく平山次郎という少年である)。巡視船時代は、北海道の漁業者から当時海保唯一の砕氷船として絶大な信頼を寄せられ、1978年の巡視船引退にあたって「さよなら宗谷」なる歌が創作されるなど、まさに昭和の日本を代表する船であった。 日本最南端の島・波照間島には、石垣島から約1時間かけて船で向かいます。 この船は、まるでジェットコースターのように激しく揺れることで有名です。 船のトイレには、船酔いしたお客さんの行列ができるほどです。 民領丸 1944年2月14日 米潜水艦「フラッシャー」の魚雷攻撃によりフィリピンベルデ海峡にて沈没、戦死者4名, 戦後、一時GHQに接収された「宗谷」は間もなく日本に返還され、第二復員省所属の特別輸送艦(船舶運営会所属の引揚船)として台湾、ベトナムのサイゴン、葫蘆島、樺太からの引揚輸送を担い、1万9000人以上を舞鶴、北海道へと運んだ。 ƒNƒ‰ƒX‚Å‚ ‚é‚Ì‚ðl‚¦‚é‚ƁA‚¢‚©‚ɏ¬‚³‚¢‚©‚ª—eˆÕ‚ɐ„‘ª‚Å‚«‚é 時は北洋漁業の最盛期であり、日本の漁船は千島列島沖からカムチャッカ半島沖、さらには遠くベーリング海にまで進出していた。海難の連絡を受けてから北海道を出航するのでは間に合わないことから、常時北洋の漁場に待機(「ステーションパトロール」という)し、荒海に耐える巡視船が求められていたのである。冬季、宗谷は「えりも」(初代、PL13)などの第一管区の他の大型巡視船とともにステーションパトロールにあたり、千島からカムチャッカ東岸を巡回した。本格的な砕氷能力を持つ宗谷が巡回に加わったことで氷に閉じ込められた漁船の救助がすみやかに行われるようになった。また、宗谷には手術設備を持つ医療室もあり、多くの人々の命を救った。 「宗谷」を建造した川南工業は戦時標準船の大量建造で造船大手となったが、船舶設計能力に乏しく戦後の造船需要に対応できず、1950年に破産、1955年に倒産した。本拠とした香焼島造船所は三菱重工へ売却、現在の三菱重工長崎造船所香焼工場となった。, 朝日新聞記者矢田喜美雄の発案により日本学術会議の協賛を得て、1957年7月1日から1958年12月31日に開催される国際地球観測年(IGY)にあわせて日本は南極観測を行う事にし、1955年7月に開催された第1回南極会議に文書で南極観測参加の意志を伝えた。敗戦国という事もあり当初は参加に反対する声もあったが、米ソが賛成する形で日本の参加が認められ、同年11月に当時の鳩山一郎内閣が南極観測への正式参加を閣議決定した。 「宗谷」が南極観測船になることが決まると、「宗谷」に深い愛着を持っていた多くの灯台守やその家族に惜しまれることになった。海上保安庁灯台部の土井智喜部長は、宗谷の解任式で「灯台部として宗谷と別れるのは忍びがたいが、国民に少しでも明るい希望を与えることができるなら、誇りを持って宗谷を南極観測船にご用立てしようではありませんか...」と涙ながらに「宗谷」に別れを告げた。 宗谷の後任は大阪商船所属の客船だった「若草」が当たった。 1957年1月24日、「宗谷」は南緯69度東経39度の地点に接岸に成功し、1月29日観測隊はオングル島に公式上陸してここを昭和基地と命名。「宗谷」の強運は不可能を可能にした。 ブラウン島からクェゼリンへ向かおうとしたところ、前任の艦長から「クェゼリンは食料不足なので辞めたほうが良い」との助言を受けトラック島へ向かった所、クェゼリンに米軍が上陸、クェゼリンの戦いが始まった。トラック島へ向かう事は決まったが、トラック島はブラウン島よりも前線に近く危険であり、ブラウン島での測量任務も残っていたため、測量隊をブラウン島に残してトラック島へ向かうこととなった。測量隊は運の良い「宗谷」と離れるのを嫌がり「置いて行かないでくれ」と頼んだが「必ず迎えに来る」と約束してトラック島へ向かう。その後ブラウン島に米軍が上陸、ブラウン島にいた日本軍は玉砕した。 そして「ボロチャエベツ」は名前を変え、1938年6月10日に日本の商船「地領丸」として竣工したが、引取り先がないために3隻は川南工業運用のもとで栗林商船、日清汽船等にチャーターされ本土と朝鮮半島、千島列島で輸送業務に就き、川南工業と辰馬汽船が共同設立した辰南商船に移籍、しばらくして海軍への売却が正式に決まった。 この間日本の戦略が南方対米重視となった事もあり、3隻を海軍へ売却する計画は消えて1隻のみが売却された。この1隻が3姉妹の中で最後に完成した地領丸だった。 もちろん船で!(安いは正義) ゲロ専用洗面所 . 2006年には南極観測50周年を記念して「宗谷」とタロ、ジロが写った切手と記念硬貨の発行及び、南極OB会から初代「しらせ」に「宗谷」の油絵が寄贈され、8月に見学者670万人突破、11月8日には宗谷南極観測出港の再現が「宗谷」で行われた。(「宗谷」の油絵は初代しらせ退役時に南極OB会に返却され、2008年11月に艤装工事中の2代目「しらせ」に寄贈された) 1956年に公開された映画『ビルマの竪琴』では復員船として出演。なお、1957年に公開され大ヒットした映画『喜びも悲しみも幾年月』には、白く塗られた灯台補給船時代の「宗谷」が登場する...と言われることがあるが、宗谷は当時既に南極観測船に改造されており、映画に登場する白い補給船は後任の「若草」である。 第一次南極観測時、当時柔道が流行っていたケープタウンにて柔道五段の「宗谷」乗組員が柔道の講習会に招かれた時に空手の型を披露しそれが南アフリカの空手文化の始まりとなった。 ‚Å‚ ‚낤B. 1956年3月12日に日本鋼管浅野船渠で南極観測船への改造工事に着手し、10月17日に竣工した。日本鋼管浅野船渠は、過去に「宗谷」がトラック島空襲のあと修理を受けた場所でもあり、また砕氷船建造のノウハウがあったことから、「宗谷」の後継船(艦)である「ふじ」「そうや」はいずれもここで建造されている(1995年閉鎖)。 沖縄県の八重山諸島にある日本の有人島としては最南端の波照間島。石垣島の離島ターミナルからフェリーで約100分。高速船だと60分でいくことができます。冬場は特に波が高く揺れるため夏に行くの … 8月13日に来訪した海上保安庁の係官福井静夫により調査された「宗谷」は使用可能と判断され、11月に小樽より東京港竹芝桟橋沖に回航された「宗谷」は、12月12日付で海上保安庁へ移籍した。創設まもない海上保安庁の保有する船艇の中で「宗谷」は最大の船となった。 保存船としての「宗谷」は、現在も海上保安庁特殊救難隊の訓練所としても使われている。 1980年代までは通信室がアマチュア無線の送信所としても使われていた。たび重なる改造により戦前の面影はほとんど残っていないが、船橋前から船内へ続く短い側舷外通路は建造当時からの形を保っている。 選考理由の一つには戦時中の運の良さもあり、「宗谷」の持つ強運に南極観測の運命を託したのかもしれない。 ‚±‚Ì‘D‚ªu‚¾‚¢‚Æ‚¤†vi‚U‚X‚X‚”j‚Å‚ ‚éB 1979年、「宗谷」は浅野ドックにて南極観測船時代のアラートオレンジ色に塗り直し、4月中旬に船の科学館前面海域に移動した。その後4月いっぱいで船籍を抹消し5月1日から博物館船(建築物)として一般公開を開始する予定だったが、公開間際に建設省から不特定多数の見学者を迎えるには引退した船といえど建築基準法の適用を受けなければならないという判断が下された。そのため、船の科学館側が交渉をおこない甲板上だけの公開が暫定的に認められ、5月1日甲板上の一般公開が開始された。 1945年8月2日、横須賀でドック入りしている時に戦艦「長門」、病院船「氷川丸」と共に空襲を受ける。米軍機からガソリンタンクを機関室に投下され、一面ガソリンまみれになるが、ボイラーに火を入れていなかったため難を逃れる。 石川島重工業で改装工事に着手、1950年4月1日に改装を終え、第7代目灯台補給船LL01「宗谷」となった。なおこの時期、船名が「そうや」と平仮名表記されている時期もあった。 当時、物価の上昇などの影響のため工事は遅れに遅れ、起工したのは2番目にも関わらず、進水は最後となった。 室蘭に向かう道中、敵機動部隊に接近されるが、急に濃霧が立ち込めて視界がゼロに。「宗谷」は「神の衣」と乗員に呼ばれた濃霧を利用して敵中突破し、8月7日八戸港に無事入港。敵機動部隊は8月9日に女川と八戸を空襲しており、出港が遅かったら「宗谷」も沈んでいたかもしれない。 3隻の引き渡しに伴い、ソ連はロイド船級協会の規格に沿った性能を3隻に要求し、一番船ボルシェビキをロイド船級協会極東主任検査官立会いのもとで公試運転したところ、性能不十分で不合格と判断された。 建造中はソ連から派遣された技師に厳しく監視されていたにもかかわらず、なぜこんな出来になってしまったのかといえば、造船所自体が再開して間もない上に、そもそも工員の半分が「元ガラス工」、要するに船作りに関しては素人の集団が作ったからなのかもしれない。(なお本船は1938年7月にロイド船級1A耐氷型に合格している) 。 第一管区時代の主だった任務をあげると、1970年3月16日には、釧路保安部の緊急指令を受け択捉島単冠湾に出動、流氷群に前進をはばまれ猛吹雪の中で航行不能になった漁船群19隻の捜索救難活動に当たり、生存者84名の救出に成功した。1975年8月対馬丸海上慰霊祭及び沖縄国際海洋博覧会に派遣。 1978年3月10日には稚内港の流氷を粉砕し、漁船を外洋に誘導する緊急任務を受け色丹島沖から急行、3月12日に41隻の漁船を外洋に誘導した。 宗谷にとってこれが最後の砕氷任務となった。 灯台補給船時代の「宗谷」の異色の任務が奄美群島現金輸送である。アメリカ統治下にあった奄美群島が1953年12月25日に日本に復帰する事になり、それに伴い9億円の現金と通貨交換業務要員の輸送をするというものであった。12月20日、鹿児島を発した「宗谷」は21日名瀬に入港、各島を回り、25日に名瀬に帰港。27日には「日本復帰祝賀式典」に出席した国務大臣一行を乗せ、28日に鹿児島に戻った。明けて1月3日、再び名瀬に向かい、各島で米軍統治時代の軍票を回収し、通貨交換業務要員を乗せ、1月9日に鹿児島に帰還した。 1951年7月、日本海洋少年団連盟の結成式に参加、東京湾一周の公開訓練を行った。 GHQより返還されSCAJAP番号S-119が与えられた際、名前が一時期「宗谷丸」となり、国鉄連絡船の「宗谷丸」と名前が完全にかぶってしまい、一部の資料ではどちらの船を示すのかわからなくなっている。なので、「宗谷」船内で生まれた宗子さんは2人いる可能性もある。(朝鮮半島引き上げの際にも出産したと証言がある。同時期「宗谷丸(国鉄)」は国鉄の連絡船として復帰していたので「宗谷(特務艦)」であった可能性は高い) 東京都内から、小笠原父島までは、この船のみが唯一のアクセス手段。 なんと約1000キロ、丁度24時間の旅となる。 飛行場はなく、フライトのアプローチは現在はない。 しかも船は週一便のみ、何があっても途中で本土へは. 第四次南極観測ではケープタウンで豚を二頭購入して昭和基地で繁殖させようと持ち込まれたが寒さに耐え切れず死んでいる。 1948年5月1日、運輸省の外局として水路局、燈台局、保安局からなる海上保安庁が発足、水路局の測量船とすることを目的に「宗谷」の獲得運動を開始した。, 引揚任務終了後、「宗谷」は商船風に外見を改め、真岡-函館間の輸送業務に従事していた。 1949年8月1日、「宗谷」はGHQより正式に帰還業務を解かれた。 なお厳密には擬人化と異なるが、上記の『宗谷物語』ではトラック島空襲を描いた第7話「船霊と白ネズミ」で、宗谷の船霊にまつわる不思議なエピソードが描かれた。「ある夜、多くの船から女性の船霊が退船していったが、宗谷の船霊だけは引き返した。翌日の空襲で宗谷だけが生き残った」というものである。 40日以上毎日船に乗った結論から言うと. 帰れない。 海上保安庁燈台局は民間からチャーターし灯台補給船(灯台見回り船)として使用していた第十八日正丸を返還するのに伴いその代船を捜していた。この任務は当初「大泊」が割り当てられるはずだったが、老朽化が激しいため廃船、水路測量船として海上保安庁への所属が内定していた「宗谷」が候補に上がった。 普段は基本的にそこまで気になりませんが(慣れもある) 宗谷と姉妹船たち, 海軍時代は横須賀鎮守府付属・第四艦隊・第八艦隊・連合艦隊付属と様々な場所へ配属され、南方作戦、ミッドウェー海戦、第一次ソロモン海戦などの作戦にも参加。測量、威力偵察、気象・海象観測、掃海、輸送、上陸支援などなど多岐にわたる任務に従事した。 昭和基地 南極観測船 南極大陸 B 日本軍の敗色が濃くなった大戦末期には、宗谷が測量すべき海域、支援すべき上陸作戦も無くなり、もっぱら輸送任務に就く事となった。 敵機動艦隊や潜水艦部隊が待ち構える太平洋の横須賀と北海道を結ぶ輸送ルートは特攻輸送と呼ばれ、非常に危険であった。船団の他の艦艇が次々沈む中、「宗谷」が被害を受ける事はなかった。 1956年12月5日、第一次南極観測で南極へ向かっている途中、インド洋上で幻の流星群に遭遇。ほうおう座流星群と名付けられ1時間に500個程度の流星が出現する派手な流星群だったと言われている。この流星群は100年以上行方不明だったブランペイン彗星である事が近年判明した。2014年12月2日に小規模ながらも再出現した。 「宗谷」が戦時中、非常な幸運に恵まれたのは事実ではあったが、その乗組員には戦死者もあれば悲劇もあった。トラック島空襲では乗組員が「子供に会うまでは絶対に死ねない」などと死亡フラグを立てまくった上に、艦橋に機銃掃射を受けてしまったために天谷嘉重艦長は重傷、副長は戦死、座礁した状態で全ての弾薬を使い切ったために航海長が総員退艦命令を下し、船と共に心中しようとした艦長を引きずり出して避難したが、「宗谷」は生き残った。 魚雷が避けるのは普通で、魚雷が船底を通り過ぎる、または魚雷が命中しても不発(2回経験)。そのうち一回は船体に突き刺さった不発の魚雷を甲板に引き上げて記念写真を撮影した写真が残っている。停泊中に空襲に遭い、回りの船が沈んでいく中、損害軽微で健在であったことも何度もあった。B-24やP-38と交戦した事もあった。 天領丸 1945年5月29日 米潜水艦「スターレット」の魚雷攻撃により北海道宗谷海峡にて沈没、戦死者800名以上 大分発(別府港・大分港・臼杵港)のフェリー・船のネット予約。別府港など大分県から大阪(大阪南港)や神戸(神戸港)、愛媛(八幡浜港)への航路情報一覧です。マイカー(自動車)プランやバイク(二輪車)・自転車積込プランなど多数用意しております。 第一次南極観測では、東京水産大学の練習船「海鷹丸」(2代目、元海軍給糧艦「荒埼」である初代とは別の船)が随伴船として共に南極海へと向かい、「宗谷」の行動をサポートした。 船 = 水の上を移動する乗り物の「ふね」を表す一般的な言い方。大きさや動力の有無に関わらず用いる。 船舶 = 船と同じ意味だが、船に比べて改まった場合に使うことが多い。ビジネス行為を目的とした手漕ぎ以外のものを指す。 当時全国には461基の灯台があり、このうち60数基が海上補給を必要とするものであった。 4月20日〜6月6日、第一次補給航海を実施した「宗谷」は、南極観測船転用のため灯台補給船を解役されるまでの5年半この任にあたった。灯台には接岸できる港が整備されているとは限らず、人里離れた灯台への補給任務は危険な岩場への接近が必要になるなど危険を伴うものであったが、海の深さを測るソナーを装備する宗谷はこの任務にうってつけであった。 日本が担当する南極の観測地域は、プリンスハラルド海岸一帯で過去に欧米各国が上陸を目指して接近するもすべて失敗、当時の米海軍は上陸不可能と判断し「接近不可能」とした地である。現在でも南極の難所として知られ、最新技術の粋を集めて建造された第4代南極観測船「しらせ(2代目)」ですら昭和基地への接岸に失敗する事すらあるほど。 大きいクルーズ船だと船は揺れない? 船酔いはどうなの? 問題について. 「宗谷」は、本来ソ連向けの商船として建造されながら、特務艦や灯台補給船、巡視船(南極観測船時代含む)として各地の海を駆け回り、昭和史の節目の多くに関わってきた船である。巡視船任務を後継のPLH01「そうや」に引き継いだ後も船籍を残しており、海上に現存する最後の旧日本海軍艦船でもある(三笠は岸壁に埋められており建造物扱い。氷川丸は徴用船であり海軍に在籍していたわけではない)。 「宗谷」の名を冠する船は、日本海軍の艦船としては2代目(初代は日露戦争時に鹵獲した帝政 … 「カーレーター」という乗り物をご存知ですか?恐らく名前すら聞いたことがないという方も多いかと思います。それもそのはず「カーレーター」に乗れるのは日本どころか世界でも神戸にある須磨浦山上遊園のみ!日本一乗り心地が悪いという謎の乗り物をご紹介します。 軍籍に入った「宗谷」は、艦艇での軍事行動には欠かせない海図を作成するために様々な海を測量して周り、現在の海図にも「宗谷」が測量したことを示す「SOYA」と名付けられた礁が多く存在する。 @ˆÈ‰ºAŽŸ‰ñB 商船改造の軍艦ではあるが、歴代艦長は大佐もしくは中佐と巡洋艦などの艦長と同じクラスの軍人が指揮を取った。 小さい船のわりには士官用の設備もあったため、駆逐艦などよりも豪華な内部施設だった。 •’ʁA£ŒË“àŠCq˜H‚Í‚P‚OC‚O‚O‚O‚”A‰«“êE’†‘q˜H‚Í‚P‚QC‚O‚O‚O‚” 「宗谷」の最初の晴れ舞台は1940年10月11日に行われた紀元二千六百年特別観艦式であった。「宗谷」は中央気象台(戦後は気象庁)の「凌風丸(初代)」とともに、戦前の観艦式と戦後の観閲式の両方に参加した数少ない船の一隻である。, 「宗谷」は太平洋戦争中、他の船艇が全滅するような困難な任務に何度も投入されながら戦後まで生き残った、突出した強運艦の一隻として有名である。 第一次南極観測ではコウテイペンギンを持ち帰ろうとしたが、「オビ」の救助が到着する前に南極へ返してしまったので失敗している。代わりにケープタウンでケープペンギンを購入して日本へ持ち帰っている。 通常の巡視船としての任務に就くことになった「宗谷」は、1962年6月15日、日本鋼管浅野船渠に入渠、観測機器や航空機関係の重装備を撤去した。 8月1日に改装工事を終えた「宗谷」は、関東地方を管轄区域とする第三管区海上保安本部に着任した。 第三管区海上保安本部に着任した宗谷の最初の任務は、三宅島の雄山噴火で避難していた児童・学童を島へ帰還させることだった。元南極観測船に乗れると子供達は大喜びだったという。 だが、帰路で厚い氷に閉じこめられ帰れなくなる。船長の松本満次は独力での脱出を目指してギリギリまで粘ったが、2月25日に外洋までわずか5キロの地点で全く身動きがとれなくなり、結局はソ連の砕氷艦「オビ」に救出された。 この時「宗谷」は「オビ」の後についていくのが精一杯で、性能の差をまざまざと見せつけられたという。 飛行機だと30分で行けますが . ‚¤‚Ü‚Å‚à‚ ‚è‚Ü‚¹‚ñBiÎj 2019年12月28日には再度一般公開を中止し、翌3月末まで保存整備工事が行われている。この保存工事は木甲板や外板の一部などを交換する大規模なもので、万が一船体の外板に穴が開いても浸水しないよう、内側から8mm鋼材が貼り付けられ2重重ねにされる。前回の修復工事で手付かずだった非公開エリアのメンテナンスにも手がつけられ、過去の調査で構造材の腐食が指摘されたバルジ内の修復も行われるという。, 特務艦時代に主計長を務めた塩満康裕の回想によると、当時の塩満は本船の大きな丸い船尾を女性の尻に見立てて「おばさん」と呼んでいた。また、1960年代に発売された『昭和基地物語』によると、第二次南極観測に向かう途中行われた赤道祭の時に、観測隊員の手によってレーダーを簪に船体色を着物の色に見立てた姿で描かれたという。 って感じです. 灯台補給船時代に改修工事により船橋の構造が現在の物に近い形になり、煙突がやや長くなっている。 今度のお正月あたり五島列島(福江島)に行きたいと思うのですが、長崎から福江までの船って揺れませんか?「ジェットフォイル」というのとフェリーとの2つがあります。あと、その季節に五島は不向きでしょうか。単純に島内の散策(教会 ガッハッハッハッハ!!大魔王ポルポル(@poruofficial)だ。ママチャリで日本一周している。そう。ついに2016年の1月、日本の最西端である「与那国島」へとたどり着いたのだ!ガッハッハッハッハ! その弐・日本一揺れるフェリー これがあの『宙とぶ檻』。島より今まさに船に近づこうとしている ときに撮影。 きさは2m四方、人も荷物もこれに載せられ上陸するのである。 1963年4月1日、北海道を管轄地域とする第一管区海上保安本部に移籍、函館を母港とした。この際、第一管区海上保安本部所属の船艇を集めて観閲式が行われた。 巡視船としての「宗谷」の任務は、海洋調査、漁業監視、救難、医療支援、流氷速報、災害救援など多岐にわたる。さらには海上保安官候補生を乗せる実習船として長距離練習航海に出ることもあった。 2016年08月31日(水)朝、目が覚めると昨日からの揺れがまだ続いている。というよりかますます揺れがひどくなっていた。とりあえずいつものように太極拳に出るために8階のデッキに向かったけれど、「船の揺れが大きいので中止」の張り紙が出ていた。 改造工事中に伊勢湾台風の上陸が予想されため改造途中でドックを出て他の船とともに沖合で避難していた所、ヘリ甲板が風にあおられ錨の固定が外れて流されている。運良く他の船には衝突しなかった。 座ってたら気持ち悪くなりそうだったので . 幸運船 貨物船 異能生存艦 船で一番揺れる場所でもあります。 「ぱしふぃっくびいなす」では、船を一周するデッキと、その1階上の前方に小さなデッキがあります。さらにお勧めはブリッジの真上のデッキ。 南極観測船の候補としては、国鉄の連絡船「宗谷丸」が当時国内に残存した砕氷船として最も高い能力を持っていたが、大型であるがゆえに改造費が増大する事が予想され、国鉄との間の金銭的な決着がつかなかったために、同年11月海上保安庁の灯台補給船「宗谷」の使用が決定された。 トラック島空襲では回避行動中に座礁し、機銃掃射を浴びて10名が戦死、総員退艦命令が下され無人で放置された。その後の攻撃で船団の他の船が次々と沈む中、機銃掃射で船体に無数の穴が開いていたが、沈む事なく自力航行可能な状態だった。無人の「宗谷」は満潮時に自然脱出、漂流している所を乗員が飛び乗って日本へ無事帰る事ができた。 与那国島への船はかなり揺れる! 流石のこやんさんも . 2014年、本船が係留されていた船の科学館前がクルーズ客船の客船埠頭となることが決まり、先行きが懸念されていたが、江東区の青海客船ターミナル横(かつて羊蹄丸が係留されていた場所)に移すことになり、2017年9月23日にタグボートや陸上のウインチによる曳航によって移設された。自力航行ではないとはいえ、「宗谷」が動くのは実に37年ぶりの事であった。 これに合わせて南極観測船当時の雰囲気を極力再現しつつ、3か月間の修復工事が行われ、2017年4月1日に一般公開が再開された。この修復工事の前の宗谷は、長年の展示係留で展示物は色あせマストや船体も随所が錆びるなど傷みが目立つ状態であったが、内外装とも塗り直され船内の展示室も一新され、目につくところはかなり綺麗になっている。, 1979年以降、お台場・東京国際クルーズターミナル駅前の船の科学館に博物館船として係留されている。 日本で最初にヘリコプターを搭載した船でもあり、その運用実績は海上保安庁のヘリコプター搭載型大型巡視船や海上自衛隊の南極観測船に引き継がれている。, 「宗谷」の変遷。 「日本郵船氷川丸」の公式サイトによると、1930年~1960年の船歴の間に太平洋を横断した回数はなんと254回。戦前の日本で建造されたうち唯一現存する貨客船でもあるといい、まさに横浜のシンボルともいうべき船だろう。 海軍在籍時に潜水艦2隻撃退(共同戦果含む)、戦闘機1機撃墜の戦績を有しており、特務艦としては珍しい武勲を上げている。 羊蹄丸:船の科学館に「宗谷」とともに2011年まで展示されていた青函連絡船。2013年解体。 ただ、やはり軍に入隊したにもかかわらず商船改造の「宗谷」に乗り込む兵士は「こんなかっこ悪い船に乗るのか?」と落胆した者も多く、いざ乗ってみると揺れる船体に加えて速度も遅く、乗組員には相当なストレスを与えていたようだ。 だが、「宗谷」の運の良さがわかってくると「『宗谷』に乗っている事が最大の幸福に思えてきた」と戦後に多くの乗組員が語っている。 クルーズ客室(キャビン)のタイプや特長をわかりやすく解説。海側・内側客に、バルコニー付き、スイートなどの違いや、特長などをそれぞれ紹介。好みに合った客室選びの参考に。名鉄観光のクルーズ旅行専門チームによるクルーズ解説ガイド。 「宗谷」に建築基準法に適合した改装を施した場合、「三笠」のように現役時代の面影が無い「船の形をした記念館」になり果ててしまいかねなかったのだが、宗谷会と南極OB会、船の科学館館長が国に働きかけ、翌年建築基準法と船舶安全法が改正され海上に係留されているかぎり船は船ということで、船籍を保有し船舶安全法を満たしていれば船内の公開ができるようになったので、船籍を維持することになった(これにより毎年定期検査及び中間検査を受けている)。 1977年8月には灯台の無人化が進んだことに伴い、宗谷の後任だった「若草」が解役された。竣工から40年が経過した1978年7月にはついに解役が決まり、全国14の港を巡る「サヨナラ航海」8月3日〜9月3日を行い、1978年10月2日竹芝桟橋にて解役式を迎え現役を退く。解役式に海上保安庁の長官が出席したのは、現在のところ「宗谷」のみである。 「宗谷」の巡視船としての海難救助出動は350件以上、救助した船125隻、1000名以上の救助実績をあげ「北の海の守り神」と呼ばれた。 純白に塗られた「宗谷」は「燈台の白姫」「海のサンタクロース」と呼ばれ、多くの海上保安庁職員に親しまれていた。人里離れた灯台で働く人や家族にとって、年1度訪れる補給船は季節に関係なく”サンタクロース”なのである。子供たちは都会の匂いのするおもちゃや教材を積んでやってくる宗谷の来航を指折り数えて待ち望んだ。宗谷がやってくると灯台守とその家族は船上に招かれ、花が飾られ白いテーブルクロスがかけられた士官室で豪勢な食事が振舞われた。また地域によっては船医の乗っている宗谷がやってくる日を年に一度の検診日と決めている村もあり、地域の人々の医療にも当たったことから、無医村の人々も喜んだ。灯台見回り任務に当たっていた船は宗谷の他にもあるが、灯台守たちにこれほど愛された船は他になかったという。 Pixivでは、本船そのものを描いたイラストのほか、擬人化したイラストが多く見受けられる。『艦隊これくしょん』(艦これ)の二次創作として描かれたものは「海保船これ」「オリジナル艦娘」などのタグがつけられているが、『艦これ』とは関係のないイラストも多い。, 開南丸  初代宗谷 大泊 長門 第十八日正丸 - 宗谷の先代船たち